二元論的一元論 形而上学への試論

第一編 第一哲学、すなわち神・世界・真理の正体

1 序

私はこれからある挑戦的な試みをしたい。

これまで「神」とは、様々な解釈でその姿を論じられた。時に目的として、時に手段として・・・。しかし私は、形而上学的な探求をするにあたって、「神」と例えるもの、たとえられてしまうものが頭から離れない。もちろん私の想定しうる神は、信仰の対象ではないし、そういった意味では絶対的存在者とは程遠いものである。寧ろ私は、「神」なるものは活動をしない「何か」か、不完全「なる者」のいずれかだと思っており、これはスピノザの「目的」の意義から考えられる(「もし神が目的のために働くとすれば、神は必然的に何か欠けるものがあってそれを欲求していることになる〔スピノザ『エチカ』(上) 岩波文庫 畠中尚志訳 102項)。もっともスピノザ本人は、この前文から明らかなように、神の不完全性を排除しようと努めている。しかしその説明が私には納得のいくものでなく、結局神は「完全でない何か」という実感のみが残ってしまった。そしてそれを作り出したのは他でもない、「それ」に名称を付けてしまえるほど言語化されていると同時に高位な玉座に居座る、我々自身なのだ。

では、何を「神」と例えるか。私は、「コイン」を「神」と例えたい。

我々人類は、コインに「表」「裏」という名称を付けた。以下の5つの例証は、この「コイン」は倒れることなく回転を続け、絶えず人間をもてあそぶことを示すものである。これこそが私が主張したい「二元論的一元論」である。

ここまでの言明で明らかなように、私は『新約聖書』に書いてあるように、「神が世界を作った」とは考えない。むしろ、人間が人為的に、しかし全くの気まぐれによって、世界を作り、世界から「疎外」されてしまったことを明らかにしておきたい。

2 「思考」の性質とその対象たる二元論への反駁

「思考」とは一体何で、どうこの二つにアプローチをかけているというのだろう?

いや、そもそもの問題として、私は世界とのつながりにおいて「考えている」のか?それとも「考えさせられている」のか?

「考えている」としたら、つまり思考が能動的であるとしたら、私は世界を創造しているということが言えるかもしれない。ベクトルは「私」→「世界」であり、創造されなければ世界とは私から捉えられることはないだろうから。すなわちその前提を失うであろう。

「考えさせられている」としたら、つまり思考が受動的であるなら、世界は私以前に存在しており、私にアプローチをかけているだろう。対象=世界がなければ、どうやって脳は活動の起源を得られるというのか。

私の立場は、私は「考えさせられている」。およそあらゆる思惟においては、私の中にあるものとして存在するのは思惟する「私」、すなわち「心」しかない。この「心」の性質は外のもの(対象、概念、理念等)に絶えず誘惑を受ける。そして本節で(派生的に)主張したいことは、「考える」という活動の根源的起源は「無」ではないだろうか、ということである。

つまり、世界は我々の認識にとって必要条件ではあるが十分条件ではない。同様に、認識と思考は偶然の一致によって「世界」によるアプローチを許可し、絶えず与えられる「世界」を思考は「言葉」の制限を受けながら命題として表現される。常に連動しているとしたら、我々の理性はいったいいくつの情報をキャッチし、処理し、継続し、すなわち無限の可能性を持っていたことか。

デカルトは「我思う、故に我あり」《cogito sum》と述べたが、以上の主張にのっとると「我あり、故に我思う」ともいえるであろう(ここでは実存的な証明がしたいわけではない)。

しかし、これを単に「主観」と「客観」の二元論で捉えるのは完全に間違いである。この二元論的発想には心と「外のもの」には「壁」が築かれているようにおもわれる。しかし、(私の立場によれば)「外のもの」が心を誘惑してアプローチを促すとしたら、「壁」は障壁でしかない。すなわち、ベクトルとなる「何か」が必要なのだ。二元論に強い懐疑を抱くとしたら、「なぜ我々と世界の間には明確な境目がなければならないのだろう?」結局、主観とは客観との二元論ではなく、主体の統一的な意識において客観と不可分に結びついている。

3 素材1 カントの弁証論

以下の二つの「素材」では、二人の哲学者に語ってもらおう。

これに関しては『純粋理性批判』における理性のアンチノミーを参考にした。

   我々が悟性の原則を使用するために我々の理性を経験の対象に適用するだけにとどめないで、経験の限界を越えて理性の拡張を敢てしようとすると弁証的命題が生じるのである、そしてこれらの命題は、経験において実証される見込みもなければ、さりとてまた反駁されるおそれもない。つまりかかる弁証的命題は、いずれも自己矛盾を含まないばかりか、その必然性の条件を理性の自然的本性に見出すのである、ただ不幸なことにこの対立は、各自の主張を支持する必然的、妥当的な根拠をちょうど同じだけ、それぞれ自分の側にもっているのである。〔カント『純粋理性批判』(中) 岩波文庫 篠田英雄訳 101項〕

   すなわち、理性とはその本性上、「である」と「でない」の二元論から成り立っているわけではないのだ。理性の支配下にあっては、人は形而上学的な問いに一つの命題を導くことに苦心し、どちらの命題も成り立つことに気付かないのだ。

4 素材2 シュムペーターの資本主義における「創造的破壊」

考察の対象を経済に向けたい。『資本主義・社会主義・民主主義』から語ってもらおう。

 私の確立せんとつとめる論旨はこうである。すなわち、資本主義体制の現実的かつ展望的な成果は、資本主義が経済上の失敗に耐えかねて崩壊するとの考え方を否定するほどのものであり、むしろ資本主義の非常な成功こそがそれを擁護している社会制度をくつがえし、かつ、「不可避的に」その存続を不可能ならしめ、その後継者として社会主義を強く志向するような事態を作り出すということである。

 これは重要な議論である。例えば、近年AIがめざましい発展を見せているが、果たしてこれは「成功」と呼べるのか?将来的には失業の可能性が強くなることで「失敗」とみなされ、ベーシック・インカムの必要性などが強い主張となっている。「成功」と「失敗」これらは人間による恣意的な表現であって、これこそまさにコインの「裏表」ではなかろうか?

5 天使と悪魔

宗教、特に聖書の方に話を移そう。天使は神の使いであり、人々を信仰へ導く。これとよく対峙されるのが悪魔だ。悪魔は人々を苦しめ、絶望させる。

しかし、視点を「信仰へ向かう人々」に移してほしい。現実的に考えると、神の使いは天使か?それとも悪魔か?

果たして絶望のないところに信仰は生まれるのか?人々はなぜ宗教にすがるのだろう?キェルケゴールが述べたように、最終的に人々を絶望から逃がすのは信仰である。彼の言葉には賛同できる部分がある。すなわち、天使も悪魔も、役割の上ではやっていることは同じなのだ。

6 言葉による「疎外」

我々人類は、遠い昔に言葉を発明した。これによって意思の伝達が容易となり、人類史に残る「成功」の一例となった。ここにおける「成功」は、我々が言語を「支配している」という錯覚にある。すなわち、「疎外」、つまり、我々が自ら作り出した事物が、逆に我々を支配する疎遠な力として現出した。私は言葉の発明を「失敗」とは言わない。しかし、我々が言葉を「支配している」というのであれば、そうとも言えるが、そうではない。我々は「支配されてもいる」のだ。依存しているのだ。

7 結

これらの例証では、二元論的に見えて、そうではない、人類は空間・時間が支配する自然に放り込まれたのち、これを言語化して「世界」と呼び、恣意的に神(コイン)を作り出したが、コインはその直後から回転を始め、もはや我々の意識しない場所で静かに、しかし強力な影響力を持って回転を続けていることを示した。

私が「思い浮かべた」例は少なくともこの程度だが、世界にはもっと多くの「二元論的一元論」があるように思われる。

私の考察において重要概念として扱ってきたのは「思考」と「言葉」である。この両概念は互いに因果律に従って作用しているとは思えない、むしろ、そのことを思惟すること自体が既に我々の理性の可能性を越え出ているのではないだろうか。すなわちこの両概念は互いを必要とし、一方が欠けてしまえば理性はもはや完全に欠如したものとなる。

しかし、だからこそ、我々は「言葉」、二元論的にならざるを得なかった、(コインのような複雑さを伴わざるを得なかった)概念を生み出さざるを得なかった。なぜなら人間はア・プリオリに思惟することを望んだからである。

形而上学の最大のテーマである「神」「世界」「真理」なるものは、人間が言葉の枠内で思考することでしか知覚できない、しかし我々に与えられているこれらの第一哲学は我々がアプローチできる限界を超越しているため、我々にはそれらがどんなものか、否、実在するかどうかさえわからないのだ!これらの探求は、こうして誤謬推理からでしか導かれえないのだ。

第二編 生と死

一般的に考えて、「生」と「死」は対置的(二元論的)に論じられ、「今ここにいること」こそ「生きていること」の証明だとする者もいる。我々にとって「生」とは実感的に与えられ、「死」とは未知なものとして解釈がなされる。

ある人は「死」を「無に帰する」という立場に立ち、またある人は「通過点」、すなわち「天国」「地獄」があるというどこに根拠を持つかわからない死の世界を信じ込んでいる。両者の主張はおそらく「死後に意識を持ちうるか」という点で分かれると思う。

私は前者の立場に立脚して「死」を「無に帰すること」として捉えたい。

この対立に対する解決のアプローチの手法として、解決しなければならない問題がある。それは「生死を分かつものは何か」。私の主張せんとするところのものは、「意識の有無」である。すなわち、「生」とは意識の実在であり、「死」とは意識の不在である。注意していただきたいのは、これは一般常識に則った仮説である。

ここにいう意識とは、対象との相関を意味するものではない。我々は「気を失う」という現象を身に受けること・受けたことがあると思う。その時間における「記憶」は、すっかりなくなっているのだ。夢を見ることもまた然りである。これらに起こっていることは、本来「生」にとって不可欠な要素である「時間の知覚」の欠如、すなわち我々が「生」から「時間」を隔離したことの根拠である。この根拠こそが、私の主張を可能にするものと思う。

すなわち、「生」とは経験的実在とそのための先験的機能を証拠として我々が自覚できる有限な時間に過ぎない。そして「死」とは、意識すなわち時間的現象(記憶など)からの離脱である。「死」を通過点と考える者、天国・地獄が待ち構えている者には、意識の存続が可能か否かが十分に考慮されてこなかった。

ところで、ここで疑問に思うことがあるかもしれない。そしてここからが、私が最も主張したい重要なテーゼにつながる。それは、「死は有限か、無限か」。この疑問に答えることは私にはできない。というのも私が今こうして思考を繰り返し、文章を作成していることそれ自体が、先の「生」の証明に合致し、死を未知なものとして考えており、この疑問に答えることは未知をさらに超越した事柄であるからだ。加えて、この疑問に論理学を投げ込むと、「死」そのものの存在が「無」となる危機に直面する。では、試行してみよう。

では、死を有限と考えてみよう。すると、死、いわゆる意識の不在が時間を伴って存在しているということは、いかにも不合理なことではあるまいか。時間の知覚は、記憶の誕生をもたらし、すなわち意識を誕生せしめることは、我々は既に経験済みである。

次に、死を無限と考え、仮に時間を伴わず、死というものがそれ自体孤立して存在するとすれば、死後の世界は絶え間ない一瞬の繰り返し、すなわち断続的な死の繰り返しであり、これもまた不合理である。

以上の簡潔なアンチノミーにより、この疑問に答えることは不可能であると思われる(もっとも、死後一瞬で新たな命に変移するというのであれば話は別だが)。ところで、このアンチノミーが論理に与える影響を見過ごしてはならない。アンチノミー、すなわち二律背反が示すところのものは、両命題の「偽」である。するとここに、主張の最も根幹となる部分、すなわち「主語」に問題があったことがわかる。どのような問題かといえば、主張の不可能、すなわち「主語の不可能」(主語の不存在)である。すなわち「死」の不存在である。

さて、さらにここで反駁がなされるかもしれない。すなわち、先に呈示した「気を失うこと」もしくは「夢」は、「死」といえるのか。そうだ。確かにこれらの状態は、他者がその状況をどう見ても「生きている」。しかし、そんなことは他者の目から見た「永遠の死」と同じことではないか?もちろん、このような論理を並べたところで、医学的な「死」の定義に影響を及ぼすことなどできないし、ましてや正当性から言えば医学こそが現実的に到底正しいのだ。しかし、論理学の仕事は、カメとウサギの競争においてカメを先にスタートさせ、例外(事実)を設けてウサギが先にゴールすることを証明することではない(ゼノン)。

ここまで、「生」と「死」を分けてその特徴を論じてきたわけであるが、この問題も形而上学的問題であり、完全な理論立ては不可能である(第一編より)。ただ、ここでも「二元論的一元論」を主張したい。というのも、万物は時間に支配されて変化を強制されており(ヘラクレイトス)、人間もまた例外ではあるまい。時間という線上において、人間は意識の不在から意識の誕生を経験し、ついには意識の不在へと至る。そしてその先は全くもって未知である、従って我々は「わかること」から推論してみると、「生と死」は人間存在の根本問題であり、この人間というものは一者として、みずからを二元論的にとらえるものではないし、そのようなことは不可能だろう。そして人間を「時間的実在」と捉えるのであれば、生も死もやむを得ない変化の一つに過ぎない。我々は「死」を大袈裟に捉えてしまう傾向があるかもしれない。確かに死はあらゆる未来の中で唯一確実に訪れる出来事ではあるけれども、それがいつかは恣意的にならない限りは不定、すなわち時間軸上においては数ある「運命」の一つに過ぎないのだ。そしてそれは、生を授かることもまた然りである。

ここで、時間とは(カントに倣って)主観的条件であることと、疑問に対する回答を併せて考察すると、人間の「死」とは論証不可能なものであるから、時間軸上の前段階、すなわち「生」というものも論証が不可能なのであって、私が先に立てた主張は、「仮象」にすぎない、すなわち私は私自身に大胆かつ強力な論証をすることにより、私自身の立場を貶め、本編のテーマ、「生と死」を第一編と同様に形而上学的問題として捉え、これを誤謬推理でしか思考できないものであることを最大にして確実なものとして確信するのである。

第三編 絶対的主体の消滅

1 序言

私は第一編において「我思う、故に我あり」とも「我あり、故に我思う」ともいえる可能性を示した。しかし、私は前者の示すところ、すなわち思考を条件として反駁を許さない絶対的主体の存在には懐疑的である(「『私は考える、ゆえに私はある』というこの真理はたいそう堅固で確実であって、懐疑論者のどんな想定をもってしても揺るがしえない」〔デカルト方法序説』 ちくま学芸文庫 山田弘明訳 56項〕)。

本編の目標は〈cogito sum〉を反駁し、この格言が示すところの「絶対的主体」を「相対化」することで、主体(自我)の脆さ・儚さを示すことにある。

2 間主観的主体への手引き

1 テリトリー

我々は、他者との関わりあいの中で生きている。しかしここでいう「関わりあい」とは、もっぱら、相手に関する情報を前提としたものである。

今、我々が日常の中で関りを持とうとして「開かれている」視界を「テリトリー」と名付けよう。これは人間が自己防衛のために、誰しもがア・プリオリに持っている性質といってもよい。すなわちこの「テリトリー」の内部においては、先の前提に立った他者が入ってくることはある程度許容されているにしても、そこに「異質な他者」、嫌悪や無関心といった「マイナス」の前提を持った他者が侵入してくると「敵意」、「排除の念」、総じて「違和感」が働いて自分をその他者から守ろうとする。

この「テリトリー」を克服し望んだ関係性を築くには「信頼」が必要となる。「テリトリー」は主体にとって不信の壁である一方で、自然本性的にそこに安心のおける「誰か」を欲しているからだ。

2 雰囲気

「テリトリー」が主体的かつ独占的・相互主観的な領域であったのに対して、我々は他者と生きているうえでどうしても感じてしまう空気、すなわち「雰囲気」がある。

「雰囲気」とは、多くの人が共有しているもので、一体性を保つために重宝すべきもの、という考えが普遍的に浸透しているように思われるが、私は違うと思う。

確かに、「雰囲気」は外的影響が「感受性」に働きかけるような、主体に対して受動的に働くもののように思われる。しかし、「雰囲気」とは自己の経験的実在性を前提として、すなわち「他者」と区別される「私(自我)」を自覚することで外との距離を設ける、能動的で、自己完結なものなのだ。

「テリトリー」が外との「関係」を規定するとすれば、「雰囲気」は外との「自我」を規定するものである。この二者は分かちがたく結びついている。すなわち「テリトリー」によって築かれた関係性は、「雰囲気」を通して自我の反省を助長する。逆もまた然りである。「雰囲気」が自我を反省せしめたところを、主体は「テリトリー」における関係性に組み込む。「テリトリー」は継時的なものであるのに対して、「雰囲気」は瞬間的なものという点も留意されたい。

3 権威

先に示したように、他者との関わりにおいては時間的条件が加わってくる。ここにおいて、「関係」を包括し、「距離」をも自己意識の中に自覚させるもの、すなわち「強力な権威をもった他者」が登場する。彼は主体に対してあらゆる概念やイデオロギーを教示する。

これは法で例えられる。なぜ我々は法に従うのか?本来法の存在意義は紛争の調停にあったはずだ。そしてこれこそが「権力」の本来の姿なのである。しかしそれが今や我々のあらゆる生活に浸透し、法の存在意義は誰に自覚されるでもなく、すなわち法であるがゆえに皆が従うのだ。それは「法が法である」というイデオロギーを我々が無意識に受容していることに他ならない。

では他者との関わりにおいてはどうか?ここでは「テリトリー」と「雰囲気」が起点となる。この二つの要素において生まれた「関係」「距離」は、「関係」が強固であればあるほど、また「距離」が近ければ近いほど、すべての時間による制約を排除して「私」に他者の妥当性を示してくる。この妥当性を完全に受け入れた形態は、通常「情」という言葉によって表現されやすい(友情、愛情など)。この「情」の関わり方が無意識的なものとして現出された瞬間、「私」は他者の抱いている信念・信条を理解せんがために他者に働きかけ、同時に他者もまた(無意識的ではあるが)「私」に対して概念やイデオロギーを醸し出す。それは主体的存在にとっては新たな「雰囲気」の誕生であり、自己反省の契機となる。すなわち、間主観的な権威は容易に「テリトリー」の壁を超え、「雰囲気」の絶えざる循環を生み出す。

3 絶対的主体の不可能性

間主観的主体へのプロセスから導かれる結論は、自我の確立は環境から一切の対象を排除して経験というものを排除することによっては成立しえない、それを認めることは主体を環境から孤立させることであって、「超越論的自我」があることになる。しかしそれは全くもって不可能であり、人間は「社会的」、すなわち人と人との関わりの中で反省を繰り返し人格を形成してゆくものである、ということだ。

ところが、「テリトリー」と「雰囲気」は空間・時間の影響によって大きく変動するものであって、人格(自我)は常にそうした環境の中で右往左往しながら順応してゆくことを強いられる(もっとも、もしこれができなければ、それは良い意味では「個性」、悪い意味では「狂気」と呼ばれる)。

したがって、「我思う、故に我あり」が示していた「絶対的主体」とは空虚な理想であって、事実は絶えざる他者との関わりの中で「相対的主体」を生み出し続けているのだ。

ところで、ここでもし「自己と他者という二元論的関係が成立している」という反論がなされるのであれば、それは浅はかなものであって、「二元論的一元論」におけるもっとも核となる部分を見落としている。「二元論的一元論」において最も主張したいことは、「形而上学的な事柄において、二元論的なように思われる事柄も、その役割・本質を考察してみると、一元的、すなわち大差ない」ということだ。

絶対的主体をここで反駁するにあたり、確かに私は「自己」と「他者」を分けた。しかし本編において最も重要であったのは、(それが自己であれ、あるいは他者であれ)「自我」である。私が「自我」を右記の条件の下で形成したことは、同時に「他者」においても当てはまる。確かに人間は、「私」と「他者」とに分けられるだろう。しかし、「自我の形成」という観点では、仮に私が隣にいる人として生まれ変わったとしても同じことである。それはすなわち、同条件においては他者であれ「絶対的主体」なるものは存在しえない、ということである。

第四編 結びとしての形而上学の虚無性、もしくは無力

以上のようにして、私はまず「神」「世界」「真理」、続いて「生きていること」、最後に「自我」の絶対性を排除してきた。これらは、我々人間にとって最も根本にある価値「出会った」ように思われる。しかし私は、あの手この手で我々の基盤を崩壊せしめ、絶対的なるものを滅しようと努めた。

私が「二元論的一元論」を通じて試みたことは他でもない、あらゆる価値観を転倒させ全てを「無」に帰することである。

しかし、私がここで目標を達するために労苦を味わったとしても、それは非現実的な理論であったことを免れ得ないだろう。「論理」とは偉大なる権力を誇って真理の探究に向けて努力を惜しまないのであるが、そこから導かれた「理論」はあくまで思惟の働きであって、私が本論文において人間の基盤(と考えられていた)たる形而上学が無になったとしても、信仰は発生し、世界はそこにあり、真理の探究は続き、また我々は自らを「死んだ者」とは思わないだろうし、「自我」は自ら形成していこうという意識は相変わらず残るだろう。要するに、理論は「思惟」であり、現実は「実感」として我々に与えられるのだ。

では、私が積み重ねた論理は誤っていたのだろうか?そうではないことを祈りたい。ならば、「実感」たる現実は何の上に身を置いているのだろうか?

考えられることは一つ、これまでの形而上学は「分析の対象を誤っていた、もしくは全くの無力だった」。